2020年1月2日木曜日

菅家福次日記:1943年1月4日 厩肥出し

菅家福次日記:1943年1月4日 厩肥出し
■厩肥出し
■1943年1月4日(月)午前晴れ、午後雪。
 快晴。屋外に出て乾布摩擦。寒気夜の如く肌にさす。午前、厩舎肥出準備。幸喜君訪れ、酒を馳走してやる。午後、兄貴と婦人とで肥出し(二時間)。天気急変雪となる。大谷の叔父から受信。十月二十六日伊勢重兄戦死の際原隊より内通のこと。彦兄宅に家内皆(女、小生を除く)招かれる。昨日の兎食べる。夜大谷信夫君返信認める。受信小椋信夫君より年賀状。発信富民(雑誌)注文一円十銭(十二ヶ月分)

■(解説)身体を鍛えるために乾布摩擦をしている。母屋には厩(うまや)があり、馬を飼育している。農耕用と、肥料製造、運搬用であり、秋に刈り取ったカヤ類(ススキ・カリヤス)や稲ワラ、豆ガラなどを給餌。カヤ類を敷いた厩では、馬の糞尿で踏ませ、それを一定日数で屋外に引き出し、堆厩肥(たいきゅうひ)として積む。これは水田やアサ、からむしの畑に入れ土を養生する。大岐の北西、志津倉山を越えた北麓の現在の三島町大谷の叔父から、家族が戦死した報が届く。夜、大谷と小椋信夫宛返信を書く。大岐に電気(電灯)が付くのは戦後の昭和二十三年なので夜は灯油ランプ下。家族の男たちは隣家の彦蔵宅に招かれ行く。昨日裏山で獲った野ウサギを食べている。一月一日も、大岐の一郎宅で野ウサギを食べている。一郎は戦後、大岐の対岸の奈良部に開墾に出る。雑誌・富民とは農業富民であろうか?購読し郵送してもらうものである。



 →初出2011年1月4日