2020年1月2日木曜日

皇紀2603年:昭和18年(1943)1月2日 ゆきこぎ(雪漕ぎ)、狩りの弾丸詰め

皇紀2603年:昭和18年(1943)1月2日、奥会津:大岐の菅家福次20歳
■ゆきこぎ(雪漕ぎ)、狩りの弾丸詰め

■1943年1月2日(土)雪
 規定兄、午前七時半頃来て出発。琵琶首まで見送る。雪は沢山ある。七、八人でこぐ。琵琶首まで二、三軒立ち寄り御馳走になる。二時頃帰宅後夕食まで炬燵にて寝る。夜、狩りの弾丸つめる。広喜君、大寺より應召の為、今日帰宅、仙台入隊。何時も精神が先決。冷水摩擦にて体験。

 主人(兄の清次)副業ザル(編み)と書かれている。

■(解説)大岐から下流4kmの琵琶首村落まで、7、8人で交替しながら雪をこぎながら出征する人を送っていった光景が書かれている。あいさつしながら行くので数軒でごちそうになったことを書いている。道無き雪の上を、一人一人カンジキを足につけて歩くのだが、あらゆき(新雪)を漕ぐ「先頭の人」にいちばん負担がかかるので、交替しながら歩く。これを「先こぎ sakikogi」という。帰宅して身体も冷え、疲れたので、炬燵で眠る。朝七時半に出て午後二時に帰宅しているから、食事の時間を考えても往復六時間かかっている。4kmの夏道だと一時間、雪道は三倍の時間がかかる勘定だ。大寺とは磐梯町で、大岐出身の人はそこで招集され仙台に入隊するので帰宅した、という。昭和村からは会津若松市の連隊に入隊する。村から若い男が次々と戦地に送られ帰ってこない。正月は休みだが、2日目から家のなかで主人(長兄の清次)はマタタビでザル作りをしている。
 夜に、狩猟のための弾丸を薬莢に詰める作業をしている。これは火薬と散弾を詰め古新聞等でふたをする作業で、昭和四〇年代まで夜の作業で、幼少の私も父・清一(昭和七年生)の「タマツメ(弾丸つめ)」を毎夜見ていた。
 大岐ではいまでも「ユキミチ(雪道)とウチマメジル(打豆汁)はあとほどよい」という。雪道は先こぎの人が付けた足跡をなぞって歩けば体力消耗が少ない。そして汁椀に大豆を木槌で打って扁平にした「打ち豆」を入れた味噌汁は、汁を吸った最後に汁椀の底に打ち豆が沈んでる。いずれも「後に歩く」ことはラク(楽)である、という俚言。

↓父・清一が2010年に作ったカンジキ。福次は清一(seiichi 昭和七年生)の父親・清次(seizi 明治40年生)の弟にあたるので、叔父になる。この日記が書かれた頃十歳で二十歳の福次(fukuzi 大正12年生)を「ふくあんにゃ(福兄者)」と呼んでいた、という。



→ 初出 2011年1月2日