2020年1月2日木曜日

菅家福次日記:1943年1月31日 木伐り

菅家福次日記:1943年1月31日


■1943年1月31日(日)晴れ
 雪が止んで漸次晴天になって寒中には稀なる暖かき日となった。木伐りを大馬力をかけたが余り伐れずにて一窯半位。夕方運ぶ。夕方は日本晴れとなって居たが夜になると急変、雪となる。夜は新聞の首相の施政演説を読み、今日未だ富民を読み母等に聞かせる。吾等農民の使命重大の気を教吹される。発信葉書二(□兄、□兄)、受信富民。

★(解説)大馬力で仕事する、という表現がよく出て来る。夜、家で新聞を読む。1月4日に注文して、新たに郵送で到着した雑誌「富民」を母等家族に読み聞かせている。

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 → 菅家福次日記初出2011年1~3月


菅家福次日記:1月30日 ウサギの足跡

菅家福次日記:1月30日 ウサギの足跡


■1943年1月30日(土)晴れ
 快晴だ。凍てるさはすごい。朝、窯に急ぐ。過呼吸さいさない位。午前中に炭を出し木を入れる。岩山の上に兔の跡があるから行って見たが居なかった。午後、荷造り。夕方になって木を少し割る。昨夜創(傷)が相当痛めたからって毎日山に通って居ると本当は何も考へる余地がない。兄清次は雪下ろし。

★(解説)岩山の雪の上に兔(うさぎ)の足跡を見つけたので鉄砲を持って行っている。山での炭焼きをしていると何も考える余地がない、と述懐している。



菅家福次日記:1943年1月29日  代筆

菅家福次日記:1943年1月29日 
■代筆

■1943年1月29日(金)雪
 四人がかりで広兄の窯も木を伐り割り運び出す立てる荷造る等、終日かかってしまった。自分と喜八氏は足で起こして居たがあっといふまに手を挟み「つめがしら」をすりむへてしまった、痛い。夜になっても痛みが止まらぬ。荷造りには一番閉口した(早朝守平氏へ葉書代筆にて贈品記状)

★(解説)不在の広兄の炭焼き仕事を四人で手伝う。その際、手を木にはさんでケガしている。大岐である山塊で炭焼きをこのときしているのは、広兄、彦蔵、喜八氏、福次(清次)、あとは一郎だろうか?また依頼され葉書を代筆(書いて)している。

菅家福次日記:1943年1月28日 五本松

菅家福次日記:1943年1月28日 五本松
■五本松

■1943年1月28日(木)雪
 朝八時半出発。七時半頃新八君と三島神社に参詣。五本松まで別る多勢の人に送られて行く。自分は村はずれで後は兄に託して炭窯へ。三俵は完全に出た。大体荷造りまで終了。広兄は川口へ組合長会議。僕等同業四人で明日、広兄の窯を炭を出すことになる。萬歳々々彼は元気よく出発す。夜、小中津川の善三氏と下中津川の千代松氏泊まる。

★(解説)福次は小野川本村の中島に泊まったのだろう。朝に鎮守の三島神社に参詣し、滝谷川を渡り、喰丸峠登り口の五本松まで村人が送る。五本松はそこに松があり特に冬季吹雪時の道標となっていた。大岐の広兄が川口に、炭の組合の仕事で行くのだろう。そのため残った四人で彼の分をやる、と言っている。二人が大岐に泊まる。新八の出征のために来たものだろうか?



現在の五本松付近にはNTTドコモの携帯電話用の無線中継塔が建っている。

菅家福次日記:1943年1月27日 木伐る

菅家福次日記:1943年1月27日


■1943年1月27日(水)吹雪
 今日は出る(炭)日であったのが、焼けて居ない。面白くない。木を一本伐って昼食後少々仕事をして家に帰る。今日は風少々強く、肌寒き日であった。明日は新八君が出発だ。夕方小野川に来た。餞別は村人が多数来れる。明日朝八時出発の予定だそうだ。全く寒い。凍てること流石寒中だ。兄清次は雪下ろし。

★(解説)小野川本村の中島の渡辺新八が出征するので、餞別を持ち村人が中島に来る。

菅家福次日記:1943年1月26日 晴天兔狩り日

菅家福次日記:1943年1月26日 晴天兔狩り日


■1943年1月26日(火)晴れ
 昨夕の予想通り、晴天となる。過日伐った木を運ぶ。午後兄貴も行き一窯ばかり伐る。補助たき夕方まで閉口する。今日は兎狩りによき日なり。各所でドーンドーン彦兄と一郎君が行き二匹とって来た。帰りに背負って来た。木炭は向への乾場に積んだ。夜杉山沢の木間さんが来る。簀子代金払へ。酒に酔って十一時まで唱を歌っていく。兄は雪下ろし、午後に炭窯に。

★(解説)晴天となり兄の清次は午前中に雪下ろし、午後に山の炭窯に行く。弟・福次は一日中山の炭窯で仕事をしている。吹雪続きの後の晴天日で兔獲り最適日で福次も行きたいのだろう。猟銃の音を聞いている。大岐の彦蔵と一郎で兔を二匹獲ってきた。木炭は大岐の向かいのホシバ(乾場)に置く。ホシバとは夏にアサ等を干す場所で草付きの広場として維持している。杉山沢の人が来て歌を歌。琵琶首の下平木地屋の先、胡桃平の杉山沢の人が来て歌を歌っている。そこに作業場(飯場)があったようだ。



胡桃平と杉山沢(琵琶首)

菅家福次日記:1943年1月25日 道具トビの焼き締め

菅家福次日記:1943年1月25日 道具トビの焼き締め
■トビ

■1943年1月25日(月)吹雪
 相当の深雪だ。昨日よりは少々よいが、中々の吹雪だ。炭を午後に出す。午前は広兄のところへ木割手伝へに行く。兄貴が午後行く。今日は、昨日とは炭を背負って来ない。今日は何時よりも遅い帰宅は新八君が来て行く来る途中、窯に立ち寄って行く。夜は「とび」を焼く。今日の出炭は三俵。

★(解説)午後に長兄・清次が炭焼きを再開したので、弟・福次は広兄の炭窯に行き木割を手伝う。炭窯に小野川の中島の新八が来た。夜は木材を引き寄せるに使う「トビ(鳶口)」を焼き締め道具の手入れ。清次が製炭を再開したので、道具の手入れを思いついたのだろう。山の仕事にはトビとドットコの2種の道具がある。

菅家福次日記:1943年1月24日 蓄音機

菅家福次日記:1943年1月24日 蓄音機
■蓄音機
■1943年1月24日(日)猛吹雪
 朝の積雪一尺余り。終日満天の風雪霏々。奈良布の原の風言語を絶する。広兄等小屋の中にて寒さを凌ぐのみ。それさへ躰一面真白。自分は前線を偲びこれもきっと一窯の木を割り小屋に入れる。昼食後すぐに帰宅。後、山刀の柄入れ。夜は彦兄の散髪。それから蓄音機レコード聴き入る。他界に入るの感ある。後は想いぽかんとする。兄・清次は農事休。

★(解説)朝の新雪は30cmあまり。一日中吹雪であった。特に奈良布原の強風はたいへんだと書いている。小屋とは炭焼き小屋のことで、境の沢流域での炭焼きと想定しているが奈良布原の風雪としているので炭焼き場所について今後、見直さなければならないかもしれない。前夜うまくいかなかったナタの持つ手に木製の柄を付けた。隣家の彦蔵の頭髪を切ってやる。蓄音機でレコードを聴いている。菅家福次20歳。

菅家福次日記:1943年1月23日 ナタの柄

菅家福次日記:1943年1月23日 ナタの柄


■1943年1月23日(土)吹雪
 積雪二寸あり。湿雪である。今日は炭出し。自分が焼き始めて十俵半となった。今日は風なり。帰宅の時などは実にひどい。今夜も大吹雪らしい。葡萄水等を呑んで寝につく。床に入ると一日の疲れが一気に出る感がする。夜、山刀の柄を入れるが割れてしまった。入れなほしせねばならぬ。兄が大谷から帰る。

★(解説)積雪が6cmほどあり、湿り雪。炭焼きを続けており、今日は炭出し。夜、刃物のナタ(山刀)を持つところの柄(え)を入れ替えるが、柄の木が割れたのでまた入れ替える。戦死した親戚宅の大谷(現在の三島町大谷)に21日出かけた兄・清次が帰宅する。炭焼きは、寝床に入ると一気に疲れが出る、という。



菅家福次日記:1943年1月22日 清一らはトランプ

菅家福次日記:1943年1月22日 トランプ


■1943年1月22日(金)晴れ、冷
 全く寒き朝であったが、漸次緩み薄曇りとなる。今日は補助たきは少々で、好天気のため、木を二窯余分切る。同業者も大張り切り木切りだ。好天候の中にと。夜はニューギニヤ秘境探査記を読む。広、一郎、武等と清一達はトランプにて興じて居る。

★(解説)炭焼き。甥の清一(昭和七年生、当時十一歳)は友だちとトランプをしており、福次は本を読む。子どもの清一(セイイチ)が出てきた。我が父である。




菅家福次日記:1943年1月21日 炭焼き

菅家福次日記:1943年1月21日


■1943年1月21日(木)快晴、冷
 今日は寒中とは思われぬ程快晴だ。一点の雲さえない。炭二俵余り出る。正午前は出して又木を入れ終わる。それより荷造りをし、雪を下ろして木を切る。仕事は順調に終わる。兄は大谷に行ってお悔やみに行ったわけだが、母は夕方帰る。夕食には小野川より貰って来た餅を食べる。夜は萬実太幸君(否先生)が遊びに来て九時余まで居る。受信星野君よりの葉書。

★(解説)快晴。炭だしをして炭窯にまた木を入れる。小野川の中島・新八宅より母・トメが餅を貰って帰ってくる。腰をひねって休んでいた兄・清次は大谷(現・三島町)の戦死報を聞いて雪のなか歩いて見舞いに行っている。

当初これら炭焼きをしていた場所は境の沢流域ではないかと思っていたが、父・清一との議論のなかで、大岐から南南東に500mほどの、奈良布原の南西端、岩下の北東、現在の県道柳津昭和線の東手、黄金沢右岸合流端の現在のカラマツ林のある通称「まるやま(丸山)」だろう、ということになった。1月24日奈良布原の吹雪で炭焼き小屋に通うのがたいへんだ、1月13日、小野川からの帰りに岩下で友人等に追いつくが、家に帰るのは夕方、ということで岩下付近に炭焼き小屋があり、そこを手伝ってから帰った、ということがわかる。丸山は小野川の博士山側の猫沢左岸にもある。



菅家福次日記:1943年1月20日 オソバのソネ

菅家福次日記:1943年1月20日 オソバのソネ
■バンドリ撃ち
■1943年1月20日(水)晴れ、冷、風
 晴れては居るが風の強き日だ。今日は大馬力をかけて炭木を切らうと思ひど、彦兄の炭窯の天井が落ちたと云ふので、手伝いに行く。十三時頃終わる。昼時は空腹に酒をやったら酔った酔った。それから木を一本切り、木を割る。補助たきは、一辺で大助かり。夜は「おそばの峯」うら枝沢へ一郎君と共に晩鳥うちに行く。一匹居た。命中しなかった。逃げられてしまった。青空のみとなったので一発は雪だんごを射ってしまった。母が小野川の中島へ新八君の立ふるまへに招かれて行く。

★(解説)彦蔵兄の炭窯のハチ(鉢、天井)が落ちたので、修復の手伝い。補助たきは一回だったので助かった。母・トメは大芦から大岐に嫁いだ人でからむしをやっている。

 夜は昨日と違う山塊にバンドリ(ムササビ)撃ち二日目。大岐集落北方のバラヤマ(場良山)のオソバノソネ(おそばの峯)、その西隣のエダサワ(枝沢)は、清一によれば「カアタニ(川谷)からオソバノソネは、官民境の杉の植わっているソネ(尾根)一帯、でかい樹がいっぱいあってバンドリがたくさん生息していた。バンドリの巣、であった」という。寛次の父・広□は家から近いのでちょいちょい行って28番の村田銃でバンドリを獲っていた。戦前当時の大岐の鉄砲には3種類あって村田銃の16番、24番、28番。おらい(清一)の福兄(叔父の福次)は父・菊造が持っていた村田銃の24番を使っていた。16番は後に喰丸の治三郎に譲った、という。オソバのソネという地名は今回はじめて出てきて父・清一に聞き取り調べた。イタチなどの天敵から逃れるため尾根の樹上に丸まっているムササビは、雪玉やホヤカブ(ヤドリギ)がムササビに見える。



↑中央山塊がオソバノソネ。その左側がエダサワ。大岐。2011年1月11日撮影。


バラヤマ(場良山)東面より。左尾根がオソバのソネ。2011年1月2日菅家博昭パノラマTX9撮影。

菅家福次日記:1943年1月19日 ムササビ

菅家福次日記:1943年1月19日 ムササビ
■新田の尾根でバンドリ撃ち
■1943年1月19日(火)晴れ、冷、風
 風の強い日である。一時頃炭を出す。夕方荷造ると約三俵あり、自分が焼。初めてから五俵となった。道がなくなって居るので一俵背負っては仲々ひどい。夜、一郎君と新田の峯より上ワナ沢の峯を一廻りして晩鳥射ち行く。新田の峯で一匹射ち、鹿射に来て姿一匹見る。発砲数一発。受信横須賀通信学校の栄松君より。

★(解説)初めて一人で行った炭を出す。炭を背負い雪道を運ぶ。夜にバンドリ(ムササビ)を撃ちに山中に入る。岩山の北嶺続きのシンデン(新田)のソネ(峯・尾根)、カミワンナザア(上ワナ沢)、シカブチ(鹿射)。一匹捕獲している。毛皮が軍隊の防寒用として高く売れた。シカブチとはクイナ(喰名山)の南尾根鞍部とワンナ沢の源流部にある尾根を掘り込んだ掘り割りで、古くはこの落とし穴でシカを獲ったという。捕獲成功すると烽火(のろし)を上げた、という話が伝わっている。中世城館跡とも思われる構造物である。

このときの炭焼きは赤く焼けた木材を窯から引きだし湿った灰を掛けて急速に冷やすことで堅く締める堅炭の「あかめ(赤目)」と呼ぶ白炭である。通常は「くろげし(黒消)」といい黒炭で製造法が異なる。補助焚きとは、クド(煙突)にフタをして焼くことを言う。窯内の木を暖める。



↑大岐集落と後背山塊。左より岩山・ワンナ沢、シカブチ、右手のピークはクイナ(山)。2011年1月2日菅家博昭撮影。
初出


菅家福次日記:1943年1月18日 ゆきつかえ

菅家福次日記:1943年1月18日 ゆきつかえ
■ゆきつかえ

■1943年1月18日(月)雪、冷
 昨日と同じやうな天気であるが、少々風強く、夕方は吹雪となる。炭木を伐る。窯の日をたく(補助たき)。一寸の暇も見たれず。世を離れた感があり苦しみもなやみも思い出せない。白き木を掴む手さへつめたさを感ぜないが手のあれるのは眼に見える。木割をしたせいか右腕が痛く肩がこる(新聞三日分来る)。富民日記注文す。一円拾六銭(送共)手紙。

★(解説)必死になって炭焼きを一人で行う。何も考えない無心の状態。雪で来なかった郵便扱いの新聞が三日分来たという。私たちの子どもの時代(昭和四〇年代)にも「雪支(ゆきつかえ)」という赤い印の押された郵便物が来ていた。雪で喰丸峠が通行できなくなると郵便配達は来ない。白き木というからブナを炭に焼いているのだろうか?


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2011年1月13日撮影。

菅家福次日記:1943年1月17日 炭焼き

菅家福次日記:1943年1月17日 炭焼き


■1943年1月17日(日)雪、冷
 兄貴の炭窯に僕がかはって行く。午後、二俵余り出して荷作りする。余り雪が降らず作業には最適日也。兄は未だ仕事出来ずに休み居る。今日は、狩りにも良き日なれど行くる能はず。致し方なしや。増産報□激務なれば寒気身にしみず金物に手つきぬ。製炭を一人で行ふは始めて也。

★(解説)兄・清次に替わって炭焼きをはじめる。一人で行うのははじめてのことである。大岐の菅家福次20歳。あかめ(白炭)を焼いている。


菅家福次日記:1943年1月16日 日記着く

菅家福次日記:1943年1月16日 日記着く
■日記着く

■1943年1月16日(土)雪、冷
 農作業休み。青年団総集会。本日日記帳着、記載開始する。青年団部長に当選、責務重大さを痛感。日中の委細の事は当用(普通)日記を買い求め書く事とする。帰途、小野川恒義氏の宅より縄六貫匁買ひ背負って来る。受信・当日記。貯金通帳局より来る。

★(解説)この日記(心の日記)が到着して書き始めるということを書いている。正月一日より十六日分まで書いたのだろう。そしてもう一冊当用日記を買い書こう、という。青年団の役員に当選している。


小野川本村。中央の松は喰丸峠から五本松、そして小野川本村の名主宅裏の松と吹雪時に歩く際の目印になっていた。

菅家福次日記:1943年1月15日 さいのかみ

菅家福次日記:1943年1月15日 さいのかみ
■サイノカミ

■1943年1月15日(金)雪、冷
 歳の神だ。兄貴が昨日、腰をねぢったと云うて休んでいるので、朝食後すぐ窯に行き今日は出るのを止める。歳の神の木を喜八氏の林の中より伐り、担ぎ運ぶが重い。藤切りには鉄砲部隊(善次、彦蔵、小生、一郎)子産沢に行く。そこで大川向へに越いで兎を狩りをしたが逃げられる。朝の良い模様が漸次雪となり夜には大降りとなった。「ヘーソク」僕が切る。

★1月5日より炭焼きに雪山に出ていた兄・清次が14日に腰をひねり寝込む。そのため15日朝に福次が炭窯の様子を見に行く。この炭窯は現在の黄金沢の右岸の奈良布丸山付近にあったと思われる。福次の用事はすべて中止する。15日は大岐村落のサイノカミ(歳の神)で、芯木を喜八氏の林とあるから大岐の西裏手のオミヤ(大山祇神社)脇の広葉樹を切ってきたようだ。オガラ(麻殻)を各戸持ちより、イナワラの縄と、フジの蔓(つる)で巻き付け雪上に建てる。そのフジ切りに行くといって4人は現在の境の沢集落(当時は無い。戦後開拓で開村)の北方のコナシサワ(子産沢)から滝谷川を渡りオオカワムケエ(大川向)で兎狩りをしているが捕獲できなかった。この地区は大岐のカヤバ(茅場)である。サイノカミに上げる和紙を切り幣束を作った。この付近にはバッケマツ(松)が有り、目印となっていた。サイノカミはいまも行われているが、麻殻は無くなり、ワラやカヤ(ススキ)になっている。ホイト(乞食)が子を産んだ場所がコナシ沢である。同じ地区にホイトシンダヒラ(乞食死んだ平)というところもある。



バッケマツの子孫(柳津町琵琶首・境の沢)


大岐センター内掲示額より(2000年1月15日に撮影) 平成11年度とある。

菅家福次日記:1943年1月14日(木)だんごさし

菅家福次日記:1943年1月14日(木)だんごさし
■だんごさし

■1943年1月14日(木)小雪、風、冷
 団子さしだが、今日は小野川校にて青年団役員会(十時より)。帰還兵歓迎会(十三時)がある。団子さしを早く片付け用意する。自分一人で出かけると風となって道がない。先を案じてもどる。後藁切包丁山カゴ等磨く。夜、高小時代の算術帳を見る。幾何何分六ヶ所今でもわからぬ位だ。今日の発信昭三へ(衣料切符在中の手紙)、フデ子へ(モチ送る)、貯金通帳局へ。

★(解説)小正月の団子さしの日。いまもだんごさしは行われている。いろいろ用事があり小野川本村に行こうとして出かけたが、雪道が吹雪で無くなっていて行くことを止める。弟妹に手紙などを送る。弟の昭三は茨城県日立の軍需工場で働いている。

 


↑2011年1月13日撮影。大岐。だんご。
↓ミズノキ(だんごをさす木)









菅家福次日記:1943年1月13日(水)岩下から大岐へ

菅家福次日記:1943年1月13日(水)岩下から大岐へ
■岩下を通り帰宅へ

■1943年1月13日(水)吹雪
 昨夜からの風は未だやまず益々猛威を振ふ。授業今日かぎり家へ帰ろうと思えば話も耳に入らず。昨夜の披露式に招かれて未だ広兄と共に帰る僕等が清次氏に休み居る中、一郎君達学校に来て帰る。荒れていると思いど、意外、心安く帰る。岩下にて追へかける。好等登校に四時間もかかったと云ふ。夕方独りで家に帰る。夜貯金集金、昭三、フデ子の許に封書認める。

★(解説)大岐から一郎たちは4kmの雪道を4時間かけて青年学校に来ている。連泊した福次は1月8日から12日まで小野川本村の親戚2軒に計5泊して、この日大岐に帰る。途中、岩下で先行きの一郎等に追いつく。




↑岩山の下が岩下。もと木地屋集落があった。
写真の左手前側

菅家福次日記:1943年1月12日  猛吹雪

菅家福次日記:1943年1月12日猛吹雪
■猛吹雪

■1943年1月12日(火)猛吹雪
 帰宅しようと思いど、猛吹雪なので泊まる。一郎君等は来校したが早めに帰る。学校への道などは何時もない。小野川の風はすごい。あまりの吹雪に急いで出て、書物包みを学校にわすれてしまふ。夜は栄八兄の結婚披露式が行はれた。見に出かけたが、余りの吹雪で早く帰る。吹き倒れに逢いそうだ。中島泊。

★(解説)吹雪である。小野川本村の地吹雪はものすごい。そこで結婚披露宴が行われている。

写真2011年1月

→初出 2011年1月12日

菅家福次日記:1943年1月11日 松坂

菅家福次日記:1943年1月11日 松坂
■雨、隣村松坂

■1943年1月11日(月)雨、雪
 寒さ緩んで雨となり、昼過ぎより雪となる。昼食頂いて登校。三芳兄が松坂に葬式に行くといふのでその用意で一家大騒ぎ。今日は泊まるのも迷惑を感じ、帰ろうと思えど夕方の吹雪で又泊まる。「泊まれ」といはれると、帰りたくないから、言葉に甘えて泊まるのだ。夕飯は叔母の家にて御馳走になる。外は只々大風だ。中島泊。

★(解説)小野川本村に福次は泊まって青年学校に通っている。中島から宿を三芳兄宅に替えて1泊したが、博士峠を越えたところにある松坂(新・宮川ダムで水没した下谷ヶ地等)で葬式に行くことになり、夜は中島にて泊。
 大岐に帰りたくない。


菅家福次日記:1943年1月10日 晴れる

菅家福次日記:1943年1月10日 晴れる


■1943年1月10日(日)晴れ、叔父宅泊。
 今日は終日好天気。朝の寒さは格別肌にさす。今夜は中島より叔母の家に来て厄介になって居る。家に帰るのが嫌でたまらぬ。人より見たらずるい奴だと云ふ人もあるだろうが泊まって見ると嫌になる。今日の学科は歴史(大宝律令当時の宗教問題)成程とうなづかれる点、他にあり登校する。かくあると覚える。

■(解説)小野川3泊目、中島2泊後、叔母の家に移る。大岐の家に帰りたくないと書いている。


↑2010年12月27日、大雪停電中の小野川本村


菅家福次日記:1943年1月9日 雪の掃除

菅家福次日記:1943年1月9日 雪の掃除
■教室の掃除
■1943年1月9日(土)風、小雪
 寒き日であった。学校に一番早く行く。昨夜の風で相当吹き込んで居る。教室を掃除する。学科は教科書にもとづいてやっていくが、自分には本が渡らない。先生に金はやってあるのだが。乾布摩擦をすると□□さん達驚いている。夜は、叔父の家へ行って遊んで来る。学科を内訳で云ふと国史購読、理科(衛生)。中島泊。

■(解説)福次20歳は自宅のある大岐から4kmほど上流にある小野川本村の親戚の中島と呼ばれる新八宅に宿泊して青年学校2日目。小野川の叔父の家に行ったと言っている。カミ(上)の三芳miyoshi宅と思われる。我々の時代にはミヨジイ(三芳爺様)と呼んでいた。

  週末に行われているようだ。福次が通った校舎ではないが木造校舎の私たちの時代も同じだったが、夜のうちに戸の隙間から雪が室内に舞い込んでいる。そうならないように新聞紙を細長く切って戸の隙間にノリで「目張り」するのだが、それでも雪は入り込む。朝、ホウキでそれを履いてチリトリに入れて外に出す。戦後、昭和40年代でも私たちの冬期間は大岐・奈良布・見沢に季節分校が出来て、そこの冬の仕事は吹き込んだ雪の掃除(始末)と薪ストーブで教室内を暖めること、後半は石炭ストーブになったが、強風(吹雪)だと煙突に強風が入って、ストーブからの吹き返しで教室内は煙だらけになった。


菅家福次日記:1943年1月8日 ゆきおろし

菅家福次日記:1943年1月8日 ゆきおろし
■ゆきおろし

■1943年1月8日(金)晴れ
 早く学校へと思い雪下ろし大馬力。午前中にて全部完了。新八君牧沢より帰る。一緒に中島に来る。夕方雪となる。夜、鼻汁でる。アンカで寝たら寝にくい寒い。体躯が雪下ろしで疲れて痛む(中島記)。学校着三時、最終の時間一時間だけ出る。

■(解説)青年学校に出るため自分の課題、家の茅葺き屋根の雪下ろしをして二日目、それで体中の筋肉が痛い。一月五日に牧沢に行っていた新八が帰ってきたので、彼と一緒に小野川に行く。中島とは新八の家で親戚。当時歩いて行くときは、途中の集落に親戚があればそこに顔を出し一服して次の集落に向かう。新八は滝谷川下流の柳津町西山地区の牧沢集落に行くときに大岐の家に立ち寄り行き来したことがわかる。小野川の分教場で授業を受けた後、新八宅で泊まっている。

↑2010年12月27日、大岐。土蔵の屋根の雪下ろし、コウシキへら。


菅家福次日記:1943年1月7日、蕎麦

菅家福次日記:1943年1月7日、蕎麦
■蕎麦
■1943年1月7日(木)晴れ、小雪。
 竹雄兄出発下通り堺沢まで見送る。小野川より大勢来る。村通過十時頃、待ち疲れる位。屋根雪下ろし開始。担当多載故困難。青年学校開始の報、今日聞く。好さん忘れる。夕食は叔母がうった蕎麦で舌つつみ。過日のおしどりの下地。五良君帰、工場。本炭積換へ。

■(解説)戦後に開拓された境ノ沢集落も奈良布集落もまだ出来ていない。竹雄兄が出征するので小野川から大勢見送りに大岐まで来て、境の沢まで見送った。屋根の雪下ろしをする。夕食はカモ(オシドリ)を汁とした(下地)のソバ(蕎麦)。その蕎麦は叔母が打ったもの。炭の積み替えをしている。昭和村では、冬山の狩猟で捕獲したヤマドリ下地(したぢ)のソバが最高と言われている。暖かいソバ(かけそば)。