2009年12月19日土曜日
12月19日、雪1mに
■2009年12月17日、18日、19日と降り続いた雪は、それまで雪のなかった山野を一面白い銀世界に変えました。大岐、標高730mで、積雪深は1m。風が無く、降り積もった雪は屋根から落ちることなく重い「里雪」で、建物2階での石油ストーブ焚きで空気を暖め屋根を暖めて雪が落ちるようにしなければなりません。大型ハウス(鉄骨)も、同じです。
2009年11月30日月曜日
フユガキ(冬囲い)終わる
2009年11月27日金曜日
2009年11月8日日曜日
だいこん摘み
2009年11月6日金曜日
11月2日16時から初雪に、20cm
2009年10月28日水曜日
2009年10月9日金曜日
川田順造さん
■2009年10月9日(金)曇り
台風18号が、10月8日(木曜日)の正午頃、台風の目が、昭和村大岐の直上を通過した。午前5時頃からの強風で大岐地区のかすみ草ハウスは水田転作のセキバ、高畠等でビニルが破損する被害があった。2年ぶりの上陸。
■2005年8月4日(木曜日)午前、文化人類学者の川田順造さんが昭和村大岐に来られた。高畠のカラムシ畑(モト子姉)を案内し、岩下木地の庚申塔、下平木地跡等を案内した。神奈川大学の日本常民文化研究所の福島県奥会津地方(田島、昭和など)のカラムシ織り等の伝承技術調査のなかでの来岐であった。
川田さんは民族文化映像研究所の姫田忠義さんらから昭和村(大芦のカラムシと大岐のアサ)のことを聞いておられた。そのためもと「じねんと塾」の佐藤孝雄君に連絡があり、彼が川田さんを送迎された。1997年~8年にかけて『岩波講座 開発と文化 全7巻』(岩波書店)が発刊され、その編集委員の一人でもある川田さん。この本の7巻目の帯には「持続可能な地球社会を創造する」と書かれている。
モト子姉は昨年でカラムシ栽培を止めた。今年は畑は荒れている。
■川田順造さんは中央公論新社より2008年3月に『もうひとつの日本への旅 モノとワザの原点を探る』に、144ページから「伝統工芸」はいま、、、、として、「からむしの里を訪ねる」としてこのときのからむしの取材記を残している。
2009年9月29日火曜日
330年前の大俣(おおまた)
■2009年9月27日(日曜日)夕方、会津若松市城東町の会津図書館で、『会津藩 家世実紀』第3巻(歴史春秋社、昭和52年刊)407ページから409ページを見てきた。
雑誌『会津学』5号(2009年8月刊)の仙台市の村上一馬さんの「熊皮の抜け荷」の記事の原本にあたって、そのことについて28日の夜に父母に話した。
『家世実紀巻之五十三』(延宝7年8月3日)には、熊皮を売った人々として「間方村久五郎、大俣村市郎右衛門、枇杷首村次郎兵衛」と記載されていた。
「江戸時代には、イチゾウって人がオオマタには、昔いたから、それはミーバアイェー(ミ婆家)ねーがあ?名前にイチ(市)が付くからな」
■我が家の祖先らが記した香典受払帳なども「大俣村」と記述しているものが多い。いまは「大岐(おおまた)」となっている。一里下流の琵琶首は枇杷首と表記されている。志津倉山を囲む三島町間方、昭和村大岐、柳津町琵琶首は、猟師も多く、クマ獲りも現在も行われている。
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■雑誌『会津学』3号に書いた記事について、そのときの話者・只見町の渡部さんから遠藤由美子編集長に連絡があり、恐縮した。「ナデ橋はとても危険なもの」ということで、現在では渡ったり、その下をくぐったりしてはならない、ということを付記されている。ありがとうございました。
■菅家博昭の日録サイト→→→記憶の森をあるく
■秋彼岸を終え、キノコが多く食卓に出ている。自生のトビダケ(黒色)、栽培のマイタケ。
雑誌『会津学』5号(2009年8月刊)の仙台市の村上一馬さんの「熊皮の抜け荷」の記事の原本にあたって、そのことについて28日の夜に父母に話した。
『家世実紀巻之五十三』(延宝7年8月3日)には、熊皮を売った人々として「間方村久五郎、大俣村市郎右衛門、枇杷首村次郎兵衛」と記載されていた。
「江戸時代には、イチゾウって人がオオマタには、昔いたから、それはミーバアイェー(ミ婆家)ねーがあ?名前にイチ(市)が付くからな」
■我が家の祖先らが記した香典受払帳なども「大俣村」と記述しているものが多い。いまは「大岐(おおまた)」となっている。一里下流の琵琶首は枇杷首と表記されている。志津倉山を囲む三島町間方、昭和村大岐、柳津町琵琶首は、猟師も多く、クマ獲りも現在も行われている。
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■雑誌『会津学』3号に書いた記事について、そのときの話者・只見町の渡部さんから遠藤由美子編集長に連絡があり、恐縮した。「ナデ橋はとても危険なもの」ということで、現在では渡ったり、その下をくぐったりしてはならない、ということを付記されている。ありがとうございました。
■菅家博昭の日録サイト→→→記憶の森をあるく
■秋彼岸を終え、キノコが多く食卓に出ている。自生のトビダケ(黒色)、栽培のマイタケ。
2009年9月26日土曜日
雑誌『会津学5号』に江戸時代の大岐が掲載
■2009年8月下旬に発刊された年1冊刊行の雑誌『会津学』5号(奥会津書房)の、223ページから村上一馬さんが「熊皮の抜け荷」ということを紹介している。
『会津藩家世実紀』に掲載されている事項に大岐がある。
延宝七年(一六七九年)八月三日条に、今年の二月に南山の御蔵入地に行き、間方村と大岐村と琵琶首村の者に熊皮を買うと言い、三月に再訪し三か村で熊皮九枚、熊胆三つを金五両と銭二貫七百文で購入した、と記載されているという。
『会津藩家世実紀』に掲載されている事項に大岐がある。
延宝七年(一六七九年)八月三日条に、今年の二月に南山の御蔵入地に行き、間方村と大岐村と琵琶首村の者に熊皮を買うと言い、三月に再訪し三か村で熊皮九枚、熊胆三つを金五両と銭二貫七百文で購入した、と記載されているという。
2009年8月4日火曜日
出水と集落上工事
2009年7月25日土曜日
寒い雨続き、暑い日に
2009年7月12日日曜日
茄子(なす)
■2009年7月12日(日曜日)曇り。15度C。
7月に入ってからは、雷雨、豪雨、、、と雨続きになっている。
春に会津盆地にあるホームセンターから求めた3本のナス(茄子)の苗を、自家食用菜園ビニルハウスのなかに植えて手入れしていた母上(ミヨ子・75歳)が、収穫してきて、昨日、今日と食卓に出してきた。まだ一般には大岐集落では茄子は遅くなる。キュウリも収穫している。食べる分だけ作っている。そしてカスミソウの採花・調整・染色・出荷の毎日で行っていない畑のズッキーニは、大きくなっており、それは皮をむいて煮浸しで昨夜の夕食に食べた。キュウリと茄子はひとしおかけて一夜漬け。キュウリは「突いて」千切りにして味噌和えになっている。
冬は秋に収穫し貯蔵していた根菜類を食べ、雪融け後は雪の消え端の山菜を4~6月と食べ、7月は雪融け後、霜が降りなくなってからの5月末に植えた野菜が採れ始める。あとはこの夏は、茄子とキュウリを中心として食事が取っていき、気づいてみると肉や魚を全く食べないで2ヶ月ほど経過していることに気づく。体は夏の暑さに充分耐えるように締まっていく。冬と夏は5kg体重差が出る。夏はやせる。
2009年6月22日月曜日
2009年5月19日火曜日
ゼンマイ採り
大岐 ゼンマイ
■2009年5月19日(火)晴れ。
父・清一(76歳)は、今朝早くから大岐集落の近くの山(滝谷川左岸のW沢)でゼンマイを採ってきた。
「近頃採ってねえがら、一カ所にこんなに出ていた。ハカセ(博士山のこと、滝谷川右岸)は6月になってがんだ」
母・ミヨ子(75歳)は、ワラでできた古いゴザを広げ、ゼンマイの綿を取る。太いゼンマイと細いゼンマイの2種に分ける。ゆでる時間が違う、揉む、干す時間が異なるからだ。細いゼンマイはマタタビで作ったカゴに入れている。綿は左手の肥料袋で手作りした「腰カゴ」に入れる。
鉄製の鍋に裏山からの沢水を入れ、石油ストーブで沸騰させゼンマイを入れゆでる。そして屋外、、、通常は庭(いえんめ、家前)に厚めのゴザを敷いてならべ天日で干す。そしてワラゴザの目を利用して手で揉み水分を飛ばす。その繰り返しが「ぜんめもみ」(ゼンマイもみ)。
かんじき用の竹を採ってきた所にはタケノコが出ていたが、それは熊(ツキノワグマ)が食べた跡があった、という。天然の葉わさびを採ってきた。
2009年5月19日 (火) 05時28分 会津学 | 固定リンク
2009年5月18日 (月)
雪があるうちにやってほしい
■今日の会議で出た意見は、
「雪があるうちに、会議をやってほしい」
という意見が複数あった。
その意味は、
「雪が融けると農作業は一斉にはじまり、忙しいから、
雪がまだ残っているうち、つまり4月末までに
会議(総会とか、、)はやってほしい」という意味。
雪が、基準になっている。
■秋は雪が降る前に、、、、という時と、
雪が降ってから、、、、という場合がある。
■雪を送りました→→→ FFCネットワーク
■柳沢峠のブナ
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