2009年9月29日火曜日

330年前の大俣(おおまた)

■2009年9月27日(日曜日)夕方、会津若松市城東町の会津図書館で、『会津藩 家世実紀』第3巻(歴史春秋社、昭和52年刊)407ページから409ページを見てきた。

 雑誌『会津学』5号(2009年8月刊)の仙台市の村上一馬さんの「熊皮の抜け荷」の記事の原本にあたって、そのことについて28日の夜に父母に話した。

 『家世実紀巻之五十三』(延宝7年8月3日)には、熊皮を売った人々として「間方村久五郎、大俣村市郎右衛門、枇杷首村次郎兵衛」と記載されていた。 

 「江戸時代には、イチゾウって人がオオマタには、昔いたから、それはミーバアイェー(ミ婆家)ねーがあ?名前にイチ(市)が付くからな」

■我が家の祖先らが記した香典受払帳なども「大俣村」と記述しているものが多い。いまは「大岐(おおまた)」となっている。一里下流の琵琶首は枇杷首と表記されている。志津倉山を囲む三島町間方、昭和村大岐、柳津町琵琶首は、猟師も多く、クマ獲りも現在も行われている。

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■雑誌『会津学』3号に書いた記事について、そのときの話者・只見町の渡部さんから遠藤由美子編集長に連絡があり、恐縮した。「ナデ橋はとても危険なもの」ということで、現在では渡ったり、その下をくぐったりしてはならない、ということを付記されている。ありがとうございました。

■菅家博昭の日録サイト→→→記憶の森をあるく


■秋彼岸を終え、キノコが多く食卓に出ている。自生のトビダケ(黒色)、栽培のマイタケ。

2009年9月26日土曜日

雑誌『会津学5号』に江戸時代の大岐が掲載

■2009年8月下旬に発刊された年1冊刊行の雑誌『会津学』5号(奥会津書房)の、223ページから村上一馬さんが「熊皮の抜け荷」ということを紹介している。
 『会津藩家世実紀』に掲載されている事項に大岐がある。
 延宝七年(一六七九年)八月三日条に、今年の二月に南山の御蔵入地に行き、間方村と大岐村と琵琶首村の者に熊皮を買うと言い、三月に再訪し三か村で熊皮九枚、熊胆三つを金五両と銭二貫七百文で購入した、と記載されているという。

村道 大岐1号線


■2009年9月25日、ほぼ舗装が終了した。