2020年1月2日木曜日

菅家福次日記:1943年1月16日 日記着く

菅家福次日記:1943年1月16日 日記着く
■日記着く

■1943年1月16日(土)雪、冷
 農作業休み。青年団総集会。本日日記帳着、記載開始する。青年団部長に当選、責務重大さを痛感。日中の委細の事は当用(普通)日記を買い求め書く事とする。帰途、小野川恒義氏の宅より縄六貫匁買ひ背負って来る。受信・当日記。貯金通帳局より来る。

★(解説)この日記(心の日記)が到着して書き始めるということを書いている。正月一日より十六日分まで書いたのだろう。そしてもう一冊当用日記を買い書こう、という。青年団の役員に当選している。


小野川本村。中央の松は喰丸峠から五本松、そして小野川本村の名主宅裏の松と吹雪時に歩く際の目印になっていた。

菅家福次日記:1943年1月15日 さいのかみ

菅家福次日記:1943年1月15日 さいのかみ
■サイノカミ

■1943年1月15日(金)雪、冷
 歳の神だ。兄貴が昨日、腰をねぢったと云うて休んでいるので、朝食後すぐ窯に行き今日は出るのを止める。歳の神の木を喜八氏の林の中より伐り、担ぎ運ぶが重い。藤切りには鉄砲部隊(善次、彦蔵、小生、一郎)子産沢に行く。そこで大川向へに越いで兎を狩りをしたが逃げられる。朝の良い模様が漸次雪となり夜には大降りとなった。「ヘーソク」僕が切る。

★1月5日より炭焼きに雪山に出ていた兄・清次が14日に腰をひねり寝込む。そのため15日朝に福次が炭窯の様子を見に行く。この炭窯は現在の黄金沢の右岸の奈良布丸山付近にあったと思われる。福次の用事はすべて中止する。15日は大岐村落のサイノカミ(歳の神)で、芯木を喜八氏の林とあるから大岐の西裏手のオミヤ(大山祇神社)脇の広葉樹を切ってきたようだ。オガラ(麻殻)を各戸持ちより、イナワラの縄と、フジの蔓(つる)で巻き付け雪上に建てる。そのフジ切りに行くといって4人は現在の境の沢集落(当時は無い。戦後開拓で開村)の北方のコナシサワ(子産沢)から滝谷川を渡りオオカワムケエ(大川向)で兎狩りをしているが捕獲できなかった。この地区は大岐のカヤバ(茅場)である。サイノカミに上げる和紙を切り幣束を作った。この付近にはバッケマツ(松)が有り、目印となっていた。サイノカミはいまも行われているが、麻殻は無くなり、ワラやカヤ(ススキ)になっている。ホイト(乞食)が子を産んだ場所がコナシ沢である。同じ地区にホイトシンダヒラ(乞食死んだ平)というところもある。



バッケマツの子孫(柳津町琵琶首・境の沢)


大岐センター内掲示額より(2000年1月15日に撮影) 平成11年度とある。

菅家福次日記:1943年1月14日(木)だんごさし

菅家福次日記:1943年1月14日(木)だんごさし
■だんごさし

■1943年1月14日(木)小雪、風、冷
 団子さしだが、今日は小野川校にて青年団役員会(十時より)。帰還兵歓迎会(十三時)がある。団子さしを早く片付け用意する。自分一人で出かけると風となって道がない。先を案じてもどる。後藁切包丁山カゴ等磨く。夜、高小時代の算術帳を見る。幾何何分六ヶ所今でもわからぬ位だ。今日の発信昭三へ(衣料切符在中の手紙)、フデ子へ(モチ送る)、貯金通帳局へ。

★(解説)小正月の団子さしの日。いまもだんごさしは行われている。いろいろ用事があり小野川本村に行こうとして出かけたが、雪道が吹雪で無くなっていて行くことを止める。弟妹に手紙などを送る。弟の昭三は茨城県日立の軍需工場で働いている。

 


↑2011年1月13日撮影。大岐。だんご。
↓ミズノキ(だんごをさす木)









菅家福次日記:1943年1月13日(水)岩下から大岐へ

菅家福次日記:1943年1月13日(水)岩下から大岐へ
■岩下を通り帰宅へ

■1943年1月13日(水)吹雪
 昨夜からの風は未だやまず益々猛威を振ふ。授業今日かぎり家へ帰ろうと思えば話も耳に入らず。昨夜の披露式に招かれて未だ広兄と共に帰る僕等が清次氏に休み居る中、一郎君達学校に来て帰る。荒れていると思いど、意外、心安く帰る。岩下にて追へかける。好等登校に四時間もかかったと云ふ。夕方独りで家に帰る。夜貯金集金、昭三、フデ子の許に封書認める。

★(解説)大岐から一郎たちは4kmの雪道を4時間かけて青年学校に来ている。連泊した福次は1月8日から12日まで小野川本村の親戚2軒に計5泊して、この日大岐に帰る。途中、岩下で先行きの一郎等に追いつく。




↑岩山の下が岩下。もと木地屋集落があった。
写真の左手前側

菅家福次日記:1943年1月12日  猛吹雪

菅家福次日記:1943年1月12日猛吹雪
■猛吹雪

■1943年1月12日(火)猛吹雪
 帰宅しようと思いど、猛吹雪なので泊まる。一郎君等は来校したが早めに帰る。学校への道などは何時もない。小野川の風はすごい。あまりの吹雪に急いで出て、書物包みを学校にわすれてしまふ。夜は栄八兄の結婚披露式が行はれた。見に出かけたが、余りの吹雪で早く帰る。吹き倒れに逢いそうだ。中島泊。

★(解説)吹雪である。小野川本村の地吹雪はものすごい。そこで結婚披露宴が行われている。

写真2011年1月

→初出 2011年1月12日

菅家福次日記:1943年1月11日 松坂

菅家福次日記:1943年1月11日 松坂
■雨、隣村松坂

■1943年1月11日(月)雨、雪
 寒さ緩んで雨となり、昼過ぎより雪となる。昼食頂いて登校。三芳兄が松坂に葬式に行くといふのでその用意で一家大騒ぎ。今日は泊まるのも迷惑を感じ、帰ろうと思えど夕方の吹雪で又泊まる。「泊まれ」といはれると、帰りたくないから、言葉に甘えて泊まるのだ。夕飯は叔母の家にて御馳走になる。外は只々大風だ。中島泊。

★(解説)小野川本村に福次は泊まって青年学校に通っている。中島から宿を三芳兄宅に替えて1泊したが、博士峠を越えたところにある松坂(新・宮川ダムで水没した下谷ヶ地等)で葬式に行くことになり、夜は中島にて泊。
 大岐に帰りたくない。


菅家福次日記:1943年1月10日 晴れる

菅家福次日記:1943年1月10日 晴れる
■

■1943年1月10日(日)晴れ、叔父宅泊。
 今日は終日好天気。朝の寒さは格別肌にさす。今夜は中島より叔母の家に来て厄介になって居る。家に帰るのが嫌でたまらぬ。人より見たらずるい奴だと云ふ人もあるだろうが泊まって見ると嫌になる。今日の学科は歴史(大宝律令当時の宗教問題)成程とうなづかれる点、他にあり登校する。かくあると覚える。

■(解説)小野川3泊目、中島2泊後、叔母の家に移る。大岐の家に帰りたくないと書いている。


↑2010年12月27日、大雪停電中の小野川本村


菅家福次日記:1943年1月9日 雪の掃除

菅家福次日記:1943年1月9日 雪の掃除
■教室の掃除
■1943年1月9日(土)風、小雪
 寒き日であった。学校に一番早く行く。昨夜の風で相当吹き込んで居る。教室を掃除する。学科は教科書にもとづいてやっていくが、自分には本が渡らない。先生に金はやってあるのだが。乾布摩擦をすると□□さん達驚いている。夜は、叔父の家へ行って遊んで来る。学科を内訳で云ふと国史購読、理科(衛生)。中島泊。

■(解説)福次20歳は自宅のある大岐から4kmほど上流にある小野川本村の親戚の中島と呼ばれる新八宅に宿泊して青年学校2日目。小野川の叔父の家に行ったと言っている。カミ(上)の三芳miyoshi宅と思われる。我々の時代にはミヨジイ(三芳爺様)と呼んでいた。

  週末に行われているようだ。福次が通った校舎ではないが木造校舎の私たちの時代も同じだったが、夜のうちに戸の隙間から雪が室内に舞い込んでいる。そうならないように新聞紙を細長く切って戸の隙間にノリで「目張り」するのだが、それでも雪は入り込む。朝、ホウキでそれを履いてチリトリに入れて外に出す。戦後、昭和40年代でも私たちの冬期間は大岐・奈良布・見沢に季節分校が出来て、そこの冬の仕事は吹き込んだ雪の掃除(始末)と薪ストーブで教室内を暖めること、後半は石炭ストーブになったが、強風(吹雪)だと煙突に強風が入って、ストーブからの吹き返しで教室内は煙だらけになった。


菅家福次日記:1943年1月8日 ゆきおろし

菅家福次日記:1943年1月8日 ゆきおろし
■ゆきおろし

■1943年1月8日(金)晴れ
 早く学校へと思い雪下ろし大馬力。午前中にて全部完了。新八君牧沢より帰る。一緒に中島に来る。夕方雪となる。夜、鼻汁でる。アンカで寝たら寝にくい寒い。体躯が雪下ろしで疲れて痛む(中島記)。学校着三時、最終の時間一時間だけ出る。

■(解説)青年学校に出るため自分の課題、家の茅葺き屋根の雪下ろしをして二日目、それで体中の筋肉が痛い。一月五日に牧沢に行っていた新八が帰ってきたので、彼と一緒に小野川に行く。中島とは新八の家で親戚。当時歩いて行くときは、途中の集落に親戚があればそこに顔を出し一服して次の集落に向かう。新八は滝谷川下流の柳津町西山地区の牧沢集落に行くときに大岐の家に立ち寄り行き来したことがわかる。小野川の分教場で授業を受けた後、新八宅で泊まっている。

↑2010年12月27日、大岐。土蔵の屋根の雪下ろし、コウシキへら。


菅家福次日記:1943年1月7日、蕎麦

菅家福次日記:1943年1月7日、蕎麦
■蕎麦
■1943年1月7日(木)晴れ、小雪。
 竹雄兄出発下通り堺沢まで見送る。小野川より大勢来る。村通過十時頃、待ち疲れる位。屋根雪下ろし開始。担当多載故困難。青年学校開始の報、今日聞く。好さん忘れる。夕食は叔母がうった蕎麦で舌つつみ。過日のおしどりの下地。五良君帰、工場。本炭積換へ。

■(解説)戦後に開拓された境ノ沢集落も奈良布集落もまだ出来ていない。竹雄兄が出征するので小野川から大勢見送りに大岐まで来て、境の沢まで見送った。屋根の雪下ろしをする。夕食はカモ(オシドリ)を汁とした(下地)のソバ(蕎麦)。その蕎麦は叔母が打ったもの。炭の積み替えをしている。昭和村では、冬山の狩猟で捕獲したヤマドリ下地(したぢ)のソバが最高と言われている。暖かいソバ(かけそば)。

菅家福次日記:1943年1月6日 スミガマのハチアゲ

菅家福次日記:1943年1月6日 スミガマのハチアゲ
■炭窯のハチ上げ
■1943年1月6日(水)晴れ。
 昨日、炭窯のハチ(天井)が落ちたと云ふので、行き、上げる。同業者三人が手伝ってくれ午前中で終了。御神酒で上げる。□□で皆で兎狩二匹とる。夜、家にて夕食の□高食ふ。発砲一発。夕方、小中津川泊まり来る。晩、饗応に一郎君を招く。今日は終日晴天。
 青年学校、学科授業開始。

■(解説)雪山で長兄清次が炭焼きをしているが正月休み開けて一月五日に行ってみたら炭窯の天井「ハチ」が落ちて穴が開いていた。そのため福次も「ハチ上げ」に炭窯に行く。近くで炭焼きしている村人三人が手伝ってくれたので午前中で終わった。ハチ上げが終わったので炭窯に御神酒を上げる。その後、午後に炭窯のハチ上げをした皆で兎狩りをして二匹獲る。福次は鉄砲を撃ったのは一発だけなので、同行者があとは撃ったのだろう。柳沢峠を越えて小中津川の親戚が来たので、大岐村落の一郎を呼んで会食している。


昭和村両原の炭窯 2010年9月撮影



菅家福次日記:1943年1月5日 ワラグツ作り

菅家福次日記:1943年1月5日 ワラグツ作り
■藁靴作り
■1943年1月5日(火)吹雪
 朝食後、□□兄、次□兄、伊勢松兄、栄松君へ年賀状旁々縷々書いて昨夜の手紙と共に新八君に依頼する。彼は牧沢に行くと云ふ。十一頃より藁靴作り。一郎君規定兄を送って行く今日帰宅。猛吹雪で雪下で見合わせ。幸喜君出発、喰丸の帰還兵あり。往来頻繁道良好(冷水)。今日の発信、箋五枚、手紙、家から大谷への弔意状。
 作業表では藁靴三足、長兄(清次)が一月五日より製炭を十四日まで休まず行っている。

■(解説)小野川本村の中島の渡辺新八が西山村(柳津町)牧沢に行くというので、戦死した大谷村(三島町)大谷の親戚宛の手紙を託す。喰丸に戦地から帰ってきた人(帰還兵)。往来が多いので雪道は踏み固められて良好である、と書いている。同じ大岐の一郎は、大雪で出征兵士を送れず、家の雪下ろしをした、という。

→初出 2011年1月5日





只見町 2007年4月撮影
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■2020年1月2日追記:一郎氏は奈良布開拓に出て、2019年10月2日に94歳で事故死した。葬儀は会津坂下町の葬祭会館で10月6日に行われ参列した。同日、親戚の小中津川のフクイ姉99歳も葬儀が自宅で行われ父が参列、私は会津坂下町の火葬場に行く。火葬場は一郎氏と同じ。





菅家福次日記:1943年1月4日 厩肥出し

菅家福次日記:1943年1月4日 厩肥出し
■厩肥出し
■1943年1月4日(月)午前晴れ、午後雪。
 快晴。屋外に出て乾布摩擦。寒気夜の如く肌にさす。午前、厩舎肥出準備。幸喜君訪れ、酒を馳走してやる。午後、兄貴と婦人とで肥出し(二時間)。天気急変雪となる。大谷の叔父から受信。十月二十六日伊勢重兄戦死の際原隊より内通のこと。彦兄宅に家内皆(女、小生を除く)招かれる。昨日の兎食べる。夜大谷信夫君返信認める。受信小椋信夫君より年賀状。発信富民(雑誌)注文一円十銭(十二ヶ月分)

■(解説)身体を鍛えるために乾布摩擦をしている。母屋には厩(うまや)があり、馬を飼育している。農耕用と、肥料製造、運搬用であり、秋に刈り取ったカヤ類(ススキ・カリヤス)や稲ワラ、豆ガラなどを給餌。カヤ類を敷いた厩では、馬の糞尿で踏ませ、それを一定日数で屋外に引き出し、堆厩肥(たいきゅうひ)として積む。これは水田やアサ、からむしの畑に入れ土を養生する。大岐の北西、志津倉山を越えた北麓の現在の三島町大谷の叔父から、家族が戦死した報が届く。夜、大谷と小椋信夫宛返信を書く。大岐に電気(電灯)が付くのは戦後の昭和二十三年なので夜は灯油ランプ下。家族の男たちは隣家の彦蔵宅に招かれ行く。昨日裏山で獲った野ウサギを食べている。一月一日も、大岐の一郎宅で野ウサギを食べている。一郎は戦後、大岐の対岸の奈良部に開墾に出る。雑誌・富民とは農業富民であろうか?購読し郵送してもらうものである。



 →初出2011年1月4日

菅家福次日記:1943年1月3日(日) ■裏山で彦兄と狩り

菅家福次日記:1943年1月3日(日)
■裏山で彦兄と狩り


■1943年1月3日(日)晴れのち小雪
 狩り。雪は「ひざ」の上までかかる。裏山より上ワナ沢(カミワンナザア)、岩山(ユワヤマ)方面へ。裏山にて一匹射つ、発砲数二発。岩山にて彦兄と別れて帰宅。遅れ心配をかける。昼食は餅一ずつの上、岩山に三度上った。へとへとに疲れる。夜身体が痛める。身体は真白雪にもぐったよう、その上、皆凍る。夕方晴天となる。(冷水摩擦)
 (兄清次・ザル作り、とあり) 

■(解説)大岐の上手の隣家の彦兄(ひこあんにゃ:彦蔵兄者)と自宅裏山、村の鎮守・山の神があるところから上流側に行ったことが書かれている。ワンナ沢はカミとシモの2本の沢があり、そのカミワンナ沢と岩山でウサギ狩りをした。岩山に三回上ったという。昼食は山中でモチ一枚。帰路は彦兄と別々な路程で帰る、というのは、行きに見なかった地域を分かれて足跡などを次の狩りのために探しながら帰る、ということを指す。帰ったら、必ずその仲間に帰ったことを告げるが、福次の帰りが遅いので彦蔵は心配している。
 彦蔵(hikozou 明治44年8月15日生)は清氏(kiyoshi)の父親で、昭和四〇年代、大岐の男衆が関東地方に出稼ぎしていた時、子ども(小学生)の私を連れて何度も裏山に行った。十二月に正月用の松(キタゴヨウ)を採るためにカンジキを履いてオミヤ(山の神様)のある裏山行っている。彦蔵を私たちは「おんつあじい」と呼んだ。祖母トシ(明治42年生)の弟で、父・清一からみて叔父にあたるからだ。父・清一(せいいち)も彦蔵に付いて雪山を歩き狩猟を教わっている。彦蔵は平成2年(1990)7月14日に亡くなった。好きな爺様であった。そのときの私は30歳。→初出(菅家博昭2011年1月3日記)




↑岩山(北面) カミワンナ沢 シカブチ 喰名(クイナ) 大岐集落

↓岩山(東面)


皇紀2603年:昭和18年(1943)1月2日 ゆきこぎ(雪漕ぎ)、狩りの弾丸詰め

皇紀2603年:昭和18年(1943)1月2日、奥会津:大岐の菅家福次20歳
■ゆきこぎ(雪漕ぎ)、狩りの弾丸詰め

■1943年1月2日(土)雪
 規定兄、午前七時半頃来て出発。琵琶首まで見送る。雪は沢山ある。七、八人でこぐ。琵琶首まで二、三軒立ち寄り御馳走になる。二時頃帰宅後夕食まで炬燵にて寝る。夜、狩りの弾丸つめる。広喜君、大寺より應召の為、今日帰宅、仙台入隊。何時も精神が先決。冷水摩擦にて体験。

 主人(兄の清次)副業ザル(編み)と書かれている。

■(解説)大岐から下流4kmの琵琶首村落まで、7、8人で交替しながら雪をこぎながら出征する人を送っていった光景が書かれている。あいさつしながら行くので数軒でごちそうになったことを書いている。道無き雪の上を、一人一人カンジキを足につけて歩くのだが、あらゆき(新雪)を漕ぐ「先頭の人」にいちばん負担がかかるので、交替しながら歩く。これを「先こぎ sakikogi」という。帰宅して身体も冷え、疲れたので、炬燵で眠る。朝七時半に出て午後二時に帰宅しているから、食事の時間を考えても往復六時間かかっている。4kmの夏道だと一時間、雪道は三倍の時間がかかる勘定だ。大寺とは磐梯町で、大岐出身の人はそこで招集され仙台に入隊するので帰宅した、という。昭和村からは会津若松市の連隊に入隊する。村から若い男が次々と戦地に送られ帰ってこない。正月は休みだが、2日目から家のなかで主人(長兄の清次)はマタタビでザル作りをしている。
 夜に、狩猟のための弾丸を薬莢に詰める作業をしている。これは火薬と散弾を詰め古新聞等でふたをする作業で、昭和四〇年代まで夜の作業で、幼少の私も父・清一(昭和七年生)の「タマツメ(弾丸つめ)」を毎夜見ていた。
 大岐ではいまでも「ユキミチ(雪道)とウチマメジル(打豆汁)はあとほどよい」という。雪道は先こぎの人が付けた足跡をなぞって歩けば体力消耗が少ない。そして汁椀に大豆を木槌で打って扁平にした「打ち豆」を入れた味噌汁は、汁を吸った最後に汁椀の底に打ち豆が沈んでる。いずれも「後に歩く」ことはラク(楽)である、という俚言。

↓父・清一が2010年に作ったカンジキ。福次は清一(seiichi 昭和七年生)の父親・清次(seizi 明治40年生)の弟にあたるので、叔父になる。この日記が書かれた頃十歳で二十歳の福次(fukuzi 大正12年生)を「ふくあんにゃ(福兄者)」と呼んでいた、という。



→ 初出 2011年1月2日


皇紀2603年:昭和18年(1943)1月1日、奥会津:大岐の菅家福次20歳

■我が家の菅家福次(戦死者)の昭和村大岐に生きた時代の日記を翻刻した2011年は3月11日の大地震・原子力発電所の爆発により中断していた。ここに再開する。

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■皇紀2603年:昭和18年:癸未(キビ:みずのとひつじ)

 西暦1943年。福島県大沼郡昭和村大字小野川字大岐1723 菅家福次(大正12年生)、20歳。

 1月1日の日記。





<原文>
■1943年1月1日(金)晴れのち雪

 例年の旧正月制を撤廃し陽暦にて執行することになれり。年始は村人等鎮守神まいり。小野川分校に於いて在郷軍人主催にて規定兄、竹雄兄の壮行会「出席」。帰宅は夜。猛吹雪、斎藤清次氏の「タイマツ」をくれたので大助かり情状感激する。一郎兄宅で兎御馳走になる(冷水摩擦行)。

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■(解説)奥会津の大岐は博士山西麓にあり、滝谷川左岸にある村落で標高730m。村の西高みに鎮守山の神様(大山祇神社)があり、年始会をそこで行った。この年から新暦(太陽暦)で行ったという。大岐の上流4kmの右岸、標高760mの小野川にある学校「小野川文教場(分校)」で在郷軍人会主催の壮行会があり菅家福次(kanke fukuzi 男・20歳)は出席。帰宅の夜は猛吹雪でタイマツを点けて大岐に雪道を歩いて戻る。一郎あんにゃ(kanke ichiro 兄者)宅でウサギ汁を御馳走になった。冷水摩擦を行っている。菅家福次は大正12年(1923)7月15日に東北南部の奥会津の昭和村大岐(ohmata おおまた)に七男として生まれたが、同年9月1日には関東大震災が発生している。大岐村落は小野川本村の端村(はむら)として、おなじ端村(木地屋)見沢とともに大字小野川(旧・小野川村)を構成している。喰丸峠を越えて喰丸、柳沢峠を越えて小中津川・下中津川など野尻川流域の昭和村中心域につながっている。滝谷川下流には下平(木地)・琵琶首・大成沢、、、とつながる。

■下の写真左が1943年の日記(大阪市西区北堀江通四丁目の国民出版社発行、B6版「心の日記」)。1月1日から年末まで記述している。右「新農家日記」が1944年の日記(皇紀2604年)で4月10日まで記述している。4月11日に召集令の報があり、13日に臨時召集令状を受ける。17日夕に出征祝、18日大岐を出発、20日に会津若松市の陸軍入隊し、同年中国戦線に従軍。1945年1月15日に大岐の家では戦死公報を受け、中国湖南省冷水舗で12月3日に戦病死したことを知らされる。享年22歳。我が家に生まれ育ち、大岐の畑を耕し、その暮らした最後の日々を追う(翻刻2011年1月1日 菅家博昭)。


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残された2冊の日記



2020年1月1日水曜日

2020年1月1日、令和2年。小雪。

■2020(令和2)年1月1日(水)小雪

 雪の少ない12月であった。
 正月元旦、小雪。積雪は30cmほどと少ない。

2019年12月30日 大岐

1人、空き家、空き家、冬季南相馬へ、我が家。
2名、2名、空き家
3名、1名、1名。
11軒14名


2019年11月よりばらやま(場良山)の
コナラ類広葉樹の伐採が開始。
共有地。7年間の予定。







2019年5月4日土曜日

2019年5月3日、サクラ咲く。寒い春。

雪は少なかったものの、4月は降雪が続きました。4月27日の朝まで吹雪になりました。
大岐のサクラは5月に入り、大岐センター前の1本、文代さん宅が3日まで開花しました。モト子姉(故人、蔵之丞)宅のサクラはまだです。

蔵之丞らが開拓したと思われるツケバの近くのサクラ(県道脇)は咲きました。高畑のハウス建て作業で、良く見えます。カスミソウ栽培のハウス建ては5月1日から。野ネズミ食害の多い年で3~7割のカスミソウ越冬株が食べられました。




カスミソウ 野ネズミ食害(越冬)


福寿草の実

5月3日朝は降霜、1℃
5月1日に定植した
宿根草草花類
家向の沢口



カスミソウの霜

ツケバ付近のサクラ


5月3日午後
約20年ぶりに
高畑の角畑の上の不耕起地に
7本のウネをたてました。
宿根草を植えます。


2019年1月20日日曜日

2019/1/15 サイノカミ

■2019年1月15日(火)曇り

 午後、くら(土蔵)の屋根の雪下ろしをした。ぐしを開けておいた。



■サイノカミは18時30分から、大岐センター前。

  → サイノカミ(ようこさん) 








大岐のサイノカミ

18:30-









くら(土蔵)の屋根の雪を

ぐしを出す