2020年1月2日木曜日

菅家福次日記:1943年1月20日 オソバのソネ

菅家福次日記:1943年1月20日 オソバのソネ
■バンドリ撃ち
■1943年1月20日(水)晴れ、冷、風
 晴れては居るが風の強き日だ。今日は大馬力をかけて炭木を切らうと思ひど、彦兄の炭窯の天井が落ちたと云ふので、手伝いに行く。十三時頃終わる。昼時は空腹に酒をやったら酔った酔った。それから木を一本切り、木を割る。補助たきは、一辺で大助かり。夜は「おそばの峯」うら枝沢へ一郎君と共に晩鳥うちに行く。一匹居た。命中しなかった。逃げられてしまった。青空のみとなったので一発は雪だんごを射ってしまった。母が小野川の中島へ新八君の立ふるまへに招かれて行く。

★(解説)彦蔵兄の炭窯のハチ(鉢、天井)が落ちたので、修復の手伝い。補助たきは一回だったので助かった。母・トメは大芦から大岐に嫁いだ人でからむしをやっている。

 夜は昨日と違う山塊にバンドリ(ムササビ)撃ち二日目。大岐集落北方のバラヤマ(場良山)のオソバノソネ(おそばの峯)、その西隣のエダサワ(枝沢)は、清一によれば「カアタニ(川谷)からオソバノソネは、官民境の杉の植わっているソネ(尾根)一帯、でかい樹がいっぱいあってバンドリがたくさん生息していた。バンドリの巣、であった」という。寛次の父・広□は家から近いのでちょいちょい行って28番の村田銃でバンドリを獲っていた。戦前当時の大岐の鉄砲には3種類あって村田銃の16番、24番、28番。おらい(清一)の福兄(叔父の福次)は父・菊造が持っていた村田銃の24番を使っていた。16番は後に喰丸の治三郎に譲った、という。オソバのソネという地名は今回はじめて出てきて父・清一に聞き取り調べた。イタチなどの天敵から逃れるため尾根の樹上に丸まっているムササビは、雪玉やホヤカブ(ヤドリギ)がムササビに見える。



↑中央山塊がオソバノソネ。その左側がエダサワ。大岐。2011年1月11日撮影。


バラヤマ(場良山)東面より。左尾根がオソバのソネ。2011年1月2日菅家博昭パノラマTX9撮影。