■裏山で彦兄と狩り
■1943年1月3日(日)晴れのち小雪
狩り。雪は「ひざ」の上までかかる。裏山より上ワナ沢(カミワンナザア)、岩山(ユワヤマ)方面へ。裏山にて一匹射つ、発砲数二発。岩山にて彦兄と別れて帰宅。遅れ心配をかける。昼食は餅一ずつの上、岩山に三度上った。へとへとに疲れる。夜身体が痛める。身体は真白雪にもぐったよう、その上、皆凍る。夕方晴天となる。(冷水摩擦)
(兄清次・ザル作り、とあり)
■(解説)大岐の上手の隣家の彦兄(ひこあんにゃ:彦蔵兄者)と自宅裏山、村の鎮守・山の神があるところから上流側に行ったことが書かれている。ワンナ沢はカミとシモの2本の沢があり、そのカミワンナ沢と岩山でウサギ狩りをした。岩山に三回上ったという。昼食は山中でモチ一枚。帰路は彦兄と別々な路程で帰る、というのは、行きに見なかった地域を分かれて足跡などを次の狩りのために探しながら帰る、ということを指す。帰ったら、必ずその仲間に帰ったことを告げるが、福次の帰りが遅いので彦蔵は心配している。
彦蔵(hikozou 明治44年8月15日生)は清氏(kiyoshi)の父親で、昭和四〇年代、大岐の男衆が関東地方に出稼ぎしていた時、子ども(小学生)の私を連れて何度も裏山に行った。十二月に正月用の松(キタゴヨウ)を採るためにカンジキを履いてオミヤ(山の神様)のある裏山行っている。彦蔵を私たちは「おんつあじい」と呼んだ。祖母トシ(明治42年生)の弟で、父・清一からみて叔父にあたるからだ。父・清一(せいいち)も彦蔵に付いて雪山を歩き狩猟を教わっている。彦蔵は平成2年(1990)7月14日に亡くなった。好きな爺様であった。そのときの私は30歳。→初出(菅家博昭2011年1月3日記)
↑岩山(北面) カミワンナ沢 シカブチ 喰名(クイナ) 大岐集落
↓岩山(東面)