2020年1月2日木曜日

菅家福次日記:1943年1月21日 炭焼き

菅家福次日記:1943年1月21日


■1943年1月21日(木)快晴、冷
 今日は寒中とは思われぬ程快晴だ。一点の雲さえない。炭二俵余り出る。正午前は出して又木を入れ終わる。それより荷造りをし、雪を下ろして木を切る。仕事は順調に終わる。兄は大谷に行ってお悔やみに行ったわけだが、母は夕方帰る。夕食には小野川より貰って来た餅を食べる。夜は萬実太幸君(否先生)が遊びに来て九時余まで居る。受信星野君よりの葉書。

★(解説)快晴。炭だしをして炭窯にまた木を入れる。小野川の中島・新八宅より母・トメが餅を貰って帰ってくる。腰をひねって休んでいた兄・清次は大谷(現・三島町)の戦死報を聞いて雪のなか歩いて見舞いに行っている。

当初これら炭焼きをしていた場所は境の沢流域ではないかと思っていたが、父・清一との議論のなかで、大岐から南南東に500mほどの、奈良布原の南西端、岩下の北東、現在の県道柳津昭和線の東手、黄金沢右岸合流端の現在のカラマツ林のある通称「まるやま(丸山)」だろう、ということになった。1月24日奈良布原の吹雪で炭焼き小屋に通うのがたいへんだ、1月13日、小野川からの帰りに岩下で友人等に追いつくが、家に帰るのは夕方、ということで岩下付近に炭焼き小屋があり、そこを手伝ってから帰った、ということがわかる。丸山は小野川の博士山側の猫沢左岸にもある。