2020年1月2日木曜日

菅家福次日記:1943年1月15日 さいのかみ

菅家福次日記:1943年1月15日 さいのかみ
■サイノカミ

■1943年1月15日(金)雪、冷
 歳の神だ。兄貴が昨日、腰をねぢったと云うて休んでいるので、朝食後すぐ窯に行き今日は出るのを止める。歳の神の木を喜八氏の林の中より伐り、担ぎ運ぶが重い。藤切りには鉄砲部隊(善次、彦蔵、小生、一郎)子産沢に行く。そこで大川向へに越いで兎を狩りをしたが逃げられる。朝の良い模様が漸次雪となり夜には大降りとなった。「ヘーソク」僕が切る。

★1月5日より炭焼きに雪山に出ていた兄・清次が14日に腰をひねり寝込む。そのため15日朝に福次が炭窯の様子を見に行く。この炭窯は現在の黄金沢の右岸の奈良布丸山付近にあったと思われる。福次の用事はすべて中止する。15日は大岐村落のサイノカミ(歳の神)で、芯木を喜八氏の林とあるから大岐の西裏手のオミヤ(大山祇神社)脇の広葉樹を切ってきたようだ。オガラ(麻殻)を各戸持ちより、イナワラの縄と、フジの蔓(つる)で巻き付け雪上に建てる。そのフジ切りに行くといって4人は現在の境の沢集落(当時は無い。戦後開拓で開村)の北方のコナシサワ(子産沢)から滝谷川を渡りオオカワムケエ(大川向)で兎狩りをしているが捕獲できなかった。この地区は大岐のカヤバ(茅場)である。サイノカミに上げる和紙を切り幣束を作った。この付近にはバッケマツ(松)が有り、目印となっていた。サイノカミはいまも行われているが、麻殻は無くなり、ワラやカヤ(ススキ)になっている。ホイト(乞食)が子を産んだ場所がコナシ沢である。同じ地区にホイトシンダヒラ(乞食死んだ平)というところもある。



バッケマツの子孫(柳津町琵琶首・境の沢)


大岐センター内掲示額より(2000年1月15日に撮影) 平成11年度とある。