2020年1月2日木曜日

皇紀2603年:昭和18年(1943)1月1日、奥会津:大岐の菅家福次20歳

■我が家の菅家福次(戦死者)の昭和村大岐に生きた時代の日記を翻刻した2011年は3月11日の大地震・原子力発電所の爆発により中断していた。ここに再開する。

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■皇紀2603年:昭和18年:癸未(キビ:みずのとひつじ)

 西暦1943年。福島県大沼郡昭和村大字小野川字大岐1723 菅家福次(大正12年生)、20歳。

 1月1日の日記。





<原文>
■1943年1月1日(金)晴れのち雪

 例年の旧正月制を撤廃し陽暦にて執行することになれり。年始は村人等鎮守神まいり。小野川分校に於いて在郷軍人主催にて規定兄、竹雄兄の壮行会「出席」。帰宅は夜。猛吹雪、斎藤清次氏の「タイマツ」をくれたので大助かり情状感激する。一郎兄宅で兎御馳走になる(冷水摩擦行)。

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■(解説)奥会津の大岐は博士山西麓にあり、滝谷川左岸にある村落で標高730m。村の西高みに鎮守山の神様(大山祇神社)があり、年始会をそこで行った。この年から新暦(太陽暦)で行ったという。大岐の上流4kmの右岸、標高760mの小野川にある学校「小野川文教場(分校)」で在郷軍人会主催の壮行会があり菅家福次(kanke fukuzi 男・20歳)は出席。帰宅の夜は猛吹雪でタイマツを点けて大岐に雪道を歩いて戻る。一郎あんにゃ(kanke ichiro 兄者)宅でウサギ汁を御馳走になった。冷水摩擦を行っている。菅家福次は大正12年(1923)7月15日に東北南部の奥会津の昭和村大岐(ohmata おおまた)に七男として生まれたが、同年9月1日には関東大震災が発生している。大岐村落は小野川本村の端村(はむら)として、おなじ端村(木地屋)見沢とともに大字小野川(旧・小野川村)を構成している。喰丸峠を越えて喰丸、柳沢峠を越えて小中津川・下中津川など野尻川流域の昭和村中心域につながっている。滝谷川下流には下平(木地)・琵琶首・大成沢、、、とつながる。

■下の写真左が1943年の日記(大阪市西区北堀江通四丁目の国民出版社発行、B6版「心の日記」)。1月1日から年末まで記述している。右「新農家日記」が1944年の日記(皇紀2604年)で4月10日まで記述している。4月11日に召集令の報があり、13日に臨時召集令状を受ける。17日夕に出征祝、18日大岐を出発、20日に会津若松市の陸軍入隊し、同年中国戦線に従軍。1945年1月15日に大岐の家では戦死公報を受け、中国湖南省冷水舗で12月3日に戦病死したことを知らされる。享年22歳。我が家に生まれ育ち、大岐の畑を耕し、その暮らした最後の日々を追う(翻刻2011年1月1日 菅家博昭)。


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残された2冊の日記